8回目となる今回、「レストラン トリノ」の2代目店主、赤平匡正さんよりバトンを引き継いでいただくのは、「神楽坂飯店」の2代目店主、竹鼻公和さんです。
ジャンボ餃子や一升チャーハンなどの「チャレンジメニュー」で有名な神楽坂飯店さん。その誕生には、当時の時代背景と店主である竹鼻さんの想いが込められていました。飯田橋・神楽坂地域で人々のお腹を満たしてきた街の中華屋さんにお話を伺っていきたいと思います。
開店当時の街の雰囲気とチャレンジメニュー誕生のきっかけ
チャレンジメニューの始まりである餃子100個
―お世話になっております、東京平版です。お話が聞けることをとても楽しみにしていました。まずは、神楽坂で長年愛される神楽坂飯店さんの歴史について教えてください。
〈竹鼻さん〉昭和38年の開店当初、この地域は学生街で若者が多く、出版や印刷関連の企業も多かった記憶があります。本を作る全ての工程の業者さんが集まっていたので、昼夜関係なく働いている人がたくさんいました。
―当時から、学生さんや出版・印刷関係の方が多かったのですね。
多くの人が三交代くらいで働いていたので、当店はそういう人達にお腹いっぱい食べてもらおうと思って営業していました。'64年の東京オリンピックの少し前だったと思います。当時は地方から上京してくる学生さんや社会人が多くて、皆さんお腹を空かせていました。そういった人たちの先輩や上司が、後輩にお腹いっぱい食べさせることが多かったと記憶しています。
―お腹いっぱい食べられるメニューとして、チャレンジメニューが誕生したのですか?
そうです。今ほど大学の学食も充実していなかった時代だったので、クラブ活動をした後にそのクラブの先輩が後輩にたくさん食べさせるような場面が多く見られました。昔は「100個」というのが大食いをイメージする一つの単位だったので、「100個食べていいぞ!」っていう学生さんの気合いに圧されて、お店側も「100個食べることが出来たらお代を無料にしますよ!」という感じで盛り上がったことが、チャレンジメニューを始めたきっかけです。
―チャレンジメニューは、餃子100個が始まりだったのですね。
餃子100個が始まりではあったのですが、1つ問題がありました。当店は一般のお客様のためにも毎日餃子を作っているので、100個いっぺんに食べられてしまうとお店側としてはその後の仕込みがとても大変なんです。そこで、100個分を1個にまとめて作ったら他のお客様にも迷惑がかからないだろうという思いつきで誕生したのが、ジャンボ餃子です。
―それであの枕のように大きな餃子が生まれたのですね。その他のチャレンジメニューは、どのようなきっかけがあったのでしょうか?
一升チャーハンは、ご年配のお客様が「我々が若い頃はご飯を一升食べた」といったお話をされたことがきっかけで、「じゃあチャーハンも一升にしちゃおうじゃないか」と思いついて作りました。昭和41年頃からチャレンジメニューが始まり、出版や印刷の会社が多いこともあったからか、雑誌に取り上げられたりして有名になっていきました。
学生と地域、社会情勢の移り変わり
―開店当時から、街の人たちのお腹を満たしたいという思いがあったのですね。
その頃は学生運動が盛んに行われていて、この地域でも市街戦がありました。市街戦と言っても石の投げ合いのようなことでしたが、頻繁に機動隊と学生が小競り合いをしていました。始まるとシャッターを閉めたりするお店もありましたが、そういう時代でもお腹を空かせている人たちはたくさんいて、ひとしきり衝突が終わったあとに当店へ寄って学生さんがご飯を食べていくことが多かったです。
―その頃、印象に残っていることはありますか?
学生さんたちが疲れ切って壁に寄りかかりながらご飯を食べていたんですが、彼らが帰ると壁に青い染みが残っていて驚きました。実は、機動隊の放水にはデモの参加者を特定するために青い塗料が入っていたんです。その青い染料が幽霊みたいに壁に残っていたことはとても印象的でした。この地域には学校が多いので、昭和45年頃は学生運動が最も活発な場所の一つだったと思います。
―それから、街はどのように移り変わっていったのでしょうか。
その後はだんだんと社会情勢が落ち着いてきて、地域も様変わりしていきました。大食いチャレンジが流行したことでお客様の層も変化していき、そして今はコロナで社会情勢が変わりつつありますね。コロナの影響によって大勢で集まることができなくなり、元々団体のお客様用に作ってあった2階の席も、仕切りを用意したり、間隔を空けたりする必要がありました。
神楽坂飯店と麻雀がつなぐ、人々の想い
2階にある麻雀クラブの一角
感染症対策もしっかり行われている
―団体のお客様用の2階を今後は麻雀クラブとして営業されるそうですが、その経緯を教えてください。
以前、この地域は学生の街だったので、若い人が遊ぶ場所がたくさんありました。学生さんは授業の空き時間を使って麻雀やビリヤードを楽しんでいたのですが、神楽坂がマスコミに取り上げられて有名になったことで、麻雀店はほとんどなくなってしまいました。麻雀そのものもゲームに主役の座を奪われ、多くの麻雀店の経営が成り立たなくなってしまったわけです。
―学生さんが遊びに行く環境が様変わりしてしまったんのですね。
そうですね。当時、麻雀はいわゆる「必修科目」でした。誰もができて当たり前の時代でしたから、社会人になって縁遠くなった人でも「体が覚えている」という人が多くいるようです。お客様から麻雀をやりたいというご要望があったので、感染症対策を万全に行った上で楽しくできる環境をご用意できればと思っています。
―地域の方々が気軽に交流できる、そんな場所作りに取り組んでいらっしゃるのですね。
ご年配の方々はそのようにおっしゃってくれています。麻雀は、老化の予防にとても良い効果があるんですよ。麻雀牌を触って指を動かすことが、脳に刺激を与えるそうです。立ったり座ったりの運動ではないから比較的楽ですし、牌を並べたり、頭を使って考えるという行為が、リハビリ的な意味でも大いに役立つようです。
―麻雀は娯楽だけでなく健康にも良いことなのですね。
高齢者施設でも麻雀を取り入れているところはあるみたいで、健全に楽しんでいるようですよ。
コロナの影響でお店の経営が大変になった時に、この状況でできることを考えた結果、1階は飲食店としてこのまま続けていき、2階は麻雀店として営業させていただくことになりました。麻雀の最中に1階から出前を取ってもらえたら、とても嬉しいですね。
麻雀はコミュニケーションを取る場所としても良い面があると思っているので、マナーを守って楽しく遊ぶことを大切にしていただきたいと思っています。
”神楽坂の地域を受け継いでいく”ということ
店主 竹鼻さん
今日も笑顔で地域と人々を見守っている
―ご商売をされる上で、大切にされていることはございますか?
長年地元で飲食店を営んでいますので、”地元感”を大切にしていきたいです。街で人とすれ違ったら気兼ねなく挨拶ができることや、地元の人たちが気軽に交流できるような環境を守っていくこと、そういう考えを若い人に受け継いでいきたいと思っています。昔の街並みや雰囲気、街の移り変わりやこれからのことを積極的に話すことで、神楽坂という一つの地域を受け継いでいきたいと思っています。
年齢的な問題や世代交代もありますが、顔馴染みが気軽に声を掛け合えることが幸せだと思うので、自分のできる範囲で地元感みたいなものを維持したいと思っています。
―その想いが、麻雀クラブという新しい取り組みに繋がっていることは素敵ですね。
時代に逆行しているので商売としては利口ではないかもしれませんが、大儲けをしようとは思っていないので、2階で気軽に麻雀を楽しんで、1階でご飯を食べてくだされば、とてもありがたいことだと思います。
―では、これからの神楽坂に期待することはございますか?
若い人たちに、もっと情熱を持って欲しいと思います。学生さんたちが一番活発的だった頃は今よりももっと社会意識が高く、さまざまな考えを持っていたと思いますね。大学生も話している内容は世の中のことや自分の将来のビジョンなどでした。一人ひとりがしっかりと自分の考えを持っていたような気がします。今ではそんな話も聞きませんし、自分たちには関係ないことだと思っている人が多いように見受けられますね。若いからこそ、知らないことがあったり、失敗したりしてもいいと思うんです。利口になりすぎず、もっといきいきとした情熱を持って欲しいと願っています。
―時代が変わっても、変わらないものがあることを多くの方に知っていただきたいですね。世代を超えて守り続けていきたい暖かさを感じました。
当時の学生さんたちとの思い出や、神楽坂の移り変わりを教えてくださった竹鼻さん。チャレンジメニューも麻雀も、いつもお客様に楽しんで欲しいという思いから始められていて、竹鼻さんの素敵なお人柄が伝わってきました。貴重なお話、ありがとうございました。
コロナ禍での取材のため、取材先が変更になる場合がありますが、今後も神楽坂の店主様のバトンを繋いでいきたいと思います。
次回もどうぞお楽しみに。
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